生と死はなかなか理想どおりにはいかない
私が初めての出産に挑むとき、
それはそれは たくさんの勉強をした。
とにかく不安で仕方がなかったので(←痛みにめっぽう弱い)、不安な要素を取り除きたかったのだと思う。
生まれでてくる瞬間の、赤ちゃんの立場からの勉強もぬかりなく。
(↑個人的にはこれは出産時の心の支えになりました)
いろいろな情報をかき集め、「理想的なのは自然分娩、目指せ自然分娩」と意気込んで、そんなクリニックを探して、ソフロロジーとかいう瞑想法までしっかりと練習して挑んだ出産だった。
だけど、実際に私が経験したそれは、瞑想とか勉強してきた知識でどうこうなるものではなかった。もう、そんなことは超越してしまうのだと思う。
夫も立ち会いをしたけれど、夫がいるかいないかなど、もはやどちらでもよいくらいに必死(ごめんよ夫)。
結果的にほぼ自然分娩に近い形で出産をできて、もちろんすごく良かったとは思っているけれど、結局、出産というのは理想どおりにはなかなかいかないし、決してきれいごとではすまされない、生々しいものだと悟った。
死についても似たようなことを思う。
「尊厳死」という言葉をよく耳にする今日このごろ。
延命措置を一切せず、死を迎える。できることならば自宅で安らかに。
そんな死が理想的だし、一番良いに決まってる。賛成だし否定もしない。
生も死も、どちらもなかなか理想どおりにはいかないし、きれいごとではなかなか済まされない生々しいもの。だからこそ、たとえようもなく心を突き動かす。
それが、どちらも目にしてみて感じた私の印象です。
15年ほど前のことになるけれど、すごく心に残っている講演がある。
羽成幸子さんという方の、介護と迎える死についての講演。
身内の方5人を介護、看取ったというご自身の経験をもとにした、介護、看取りについてのお話だった。
病院で働いていたころに、職場の任務としてたまたま聞きに行った講演だったのだけど、いつの間にか話に引き込まれて、最後にはちょっぴり涙した。
かつて自分の意思で行った、自然にこだわった究極の形の講演よりも、偶然行くことになった、「実際の介護」「病院での最後」、そんな誰にでも“ある”“起こる”現実的な話の方が、最終的に私の心には一番残っていて、役に立っている気がするのでした。
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