視線を重ねる
先日父の見舞いに行ってきた。
最近はぼんやりと空気を見つめていることが多いけれど、ときおり話しかけた内容に反応することも。
今回は、釣りのキーワードに反応して、次男坊がチヌを釣り上げた写真に少し頷いて見せた。一緒に釣りに行ったときの写真である。うれしかった。
悪くなる前は、ずっと釣りに明け暮れていた父。奇しくも今になって長男坊が釣りにハマっていて、今元気だったらなあと思う。でも、元気だったとしても一緒に釣りに行けていたかは、やっぱり分からない。考えないようにしているけれど、それが本当は悲しい。
幸せとはとても言えないけれど、いずれにせよ、泣いたり怒ったり そういうものから開放されて、静かな時間を過ごしている父である。
父が、じーっと私の目を見つめるときがある。もうしゃべることができないから、何が伝えたいのかは分からないけれど、私なりに受け止めて、私なりに伝えている。
視線を重ねるということは、なんでもないことのようで、実はとても愛おしい大切な瞬間だと思う。
たとえば、ほんの数秒視線が重なるとき。
私の心は相手にどれだけ伝わって、私は相手の心をどれだけ感じ取ることができるだろう??
言葉なく行き交う心は、まるで蜘蛛の糸のように不確かで拙いものだけれど、私の心にしっかりと足跡を残していく。
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