メモ
「お母さん、こう言うのっていつまで続くの?じいじの時お母さんいつ立ち直れた?」
長男坊が私にそう聞いてきた。
まだまだ未熟ながら、今自分が向き合っている悲しみの量が、例えるならば私が父を亡くしたときのようなものではないかと思ったのだと思う。そして本当に立ち直れるのか、不安すら感じてしまったのだろう。
質問への答えというよりは、命の存在感みたいなものの話をいろいろと二人で話した。いつだったか出会って、今日のような日のために心にずっと留めていた、「虹の橋」の話を息子にも見せた。
学校で泣いてしまったらどうしようと心配していたけれど、今朝は少し気合いを入れたような面持ちで、元気に登校して行った。
彼はまたひとつ、大人へと一歩近づいたように見えた。
次男坊は昨日からやけに明るい。父のときもそうだった気がするし、彼の明るさにみな心が和む。やさしい子なのだと思う。
そして昨晩は夫が珍しく、明日の朝についてテキパキと私たちにいろいろな指示をした。
「家族4人での新しい出発だから、気持ちの良い朝にしよう」
そんな考えだったようだ。私も(めずらしく)従順にそれに従って、家族4人で元気な新しい朝を迎えた。家族もまた、ひとつの成長をとげようとしている。
そしてふと考えると、今年は毎月のように夫と次男坊は遠征をする。だからこの10連休は、家族が家にずっとそろっている貴重なひとときでもあったし、子どもたちとの遠出もたまたましていなかった。立派な大往生だったちょこは、実はタイミングまでも見事だったんだなあと、今朝になって気がついた。
(樹木葬にすることにしました)
日当たりが良く、家族をいつでも見守ってもらえる特等席(もう少しきちんと整備予定)。コレが一番、私たち家族らしい方法だと思う。
写真を見ても、動画で声を聞いても、ぽっかり空いた穴が塞がらなくて苦しいのは、その温もりを感じられないからなのだろう。命とは、温もりだったのだなあとあらためて思う。
でもちょこが残してくれたものは、もっともっと深いものだったはずだ。
形あるものばかりに捉われず、目に見えない魂のようなものや心の結びつきも感じながら、また1歩前えへ踏み出さなくては。
0コメント